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自治会

公所自治会は昭和22年(1947)に102軒の町内会が廃止となり、「自治会」となって改名、現在にいたっております。
自治会活動の拠点が会長宅や定方寺から現自治会館に移行したのは平成元年6月(1989)です。
平成19年(2007)に開所以来はじめて、会館の屋根や外壁の塗装などの化粧直しをおこないました。
以下歴史詳細

 
明治5年4月(1872年)に名主、年寄を廃止して、戸長、副戸長制になりました。
当時は国及び県の規則が次々と改められ大区、小区制が布かれて、20大区の中の3つの小区の一つが下鶴間でした。
下鶴間に隣接して上鶴間、栗原の小区があり、そこに区長、副区長区会議員が置かれています。
また、当時は下鶴間を2分して、通称「目黒と公所」と呼んでいたのです。
 昭和15年(1940年)には内務省の訓令が出て、翌16年(1941年)から区制が部落と改められて、部落長、副部落長、部落委員となりました。
 昭和19年(1944年)には、町内会となり、町内会長、副会長、地区委員(講中(こうぢゅう)長(ちょう))が生まれました。
いずれも、今風に云うと“自治会長”“副会長”“地区委員”にあたる役員だと思われます。
 
※講中(こうぢゅう)とは講のことで、公所には“稲荷講”、“大山講”、“地鎮講”、”古峰講”、”秋葉講”、“伊勢講”、”富士講”、”御嶽講”などがあり、元は土着信仰で結ばれた生活共同体と云えるでしょう。
 また、公所には上村、山谷、中村、高木、下村、二津屋の6つの講中があって、土地の祭り事(冠婚葬祭など)の助け合い組織として、それぞれの講中のメンバーは互いに強く結ばれていました。
なかでも講中長は講中の代表者として、メンバーから会費を集めて大山詣などを行い、安全祈願のお札を持ち帰って、メンバーを自宅に招き、それぞれにお札(ふだ)を配り、大そうなご馳走を振舞ったといわれます。
このような講中は戦後一時中断されていたようですが、昭和36年に北島五郎(自治会長)さんが再興して、公所の都市化と共に平成7年ころには講中が廃止されています。

 戦後、自治会が発足して以来ずっと講の代表が自治会長を兼ねていたことも特記しておかなければなりません。
昭和60年(1985年)7月29日に公所大山敬慎講を行うので、会費、男5,000円、女4,500円という案内文書が自治会に遺されています。このようなときには、大口の寄付をする有志がいて、大山詣でのあとは麓の宿で一人10,000円相当の大宴会を催したと言われます。講の廃止された現在においてもメンバーの精神的な繋がりが助け合いの輪となって、仮にご不幸のあったときには絆の力を発揮するなど、講は歴代に亘って安心・安全な町づくりの知恵を積み重ねてきたものと云えるでしょう。                      
 さらに昭和22年(1947年)には、町内会の廃止についての通達が出て新たに「自治会」と呼ぶようになりました。
それ以来、公所自治会と改名し、現在に至っております。
 なお、現自治会館は、新しくコミュニティーセンター公所会館が竣工した折に、前身の児童館がそちらへ移転しました。
 公所自治会では平成元年6月(1989年)に大和市から現在の土地と建物を借り受けて、自治会活動の拠点としたのです。
また、平成19年(2007年)には、会館を開所して以来はじめて外壁や屋根の塗装を行いました。
 
 因みに昭和22年の自治会々員数は102世帯(未加入8世帯)でしたが、昭和58年(1983年)の321世帯でした。
平成20年(2008年)は1250世帯となっています。
過去60年間に約10倍であり、未加入約550世帯を含めると公所の人口は約15倍に膨張しており、平成19年(2007年)に公所地区を東西に2分割に至ったのは、ごく自然な流れとなっています。

※明治5年(1872年)前後は後藤新平がドイツの医療制度を取り入れてわが国に医制を敷くなど、様々な新しい制度が雨後の筍のように施行されたようです。
国家の目的はともあれ自治会活動の源流をその時点に置くとすれば、現在の自治会活動は136年の歴史を荷負っているのではないかと思われます。
これから21世紀という新しい時代を受けて、公所がどのような町になって行くのか、どのような自治会活動をしていくのか、それは私たち一人ひとりの手に掛かっているのではないでしょうか。
2008年2月吉日 今井記
監 修:佐藤 利雄